学生時代からの“種まき”
「海外で働くエンジニア」──そんな姿に憧れを抱いたのは大学時代のことです。私は学生時代、カナダとフランスに1年ずつ滞在しました。北米の自由な学び、ヨーロッパの歴史を感じる日常。その中で、語学とともに「違う文化の中で生きることは、自分を大きく広げる」という感覚を身につけました。
語学は得意な方で、英語はそこそこ。専門であるシステム分野なら、簡単な通訳ができるレベルです。さらにフランス語もある程度話せ、最近は中国語にも挑戦中。今振り返ると、学生時代からの“種まき”が、後のキャリアにおいて大きな強みとなっていったのです。
出張と駐在のリアル
社会人になってからも、その延長線上に夢は広がりました。海外出張の機会は決して少なくなく、アメリカ、インド、スイスなど、数え切れないほど飛び回りました。日立時代には、ベトナムやシンガポールへの滞在経験もあります。
特に印象に残っているのは、ベトナムでの3か月間。日本企業のシステムを調べるタスクを任され、現地に入り込んで仕事をしました。しかし、日本からの指示はあいまいで、現場での判断は極めて難しい。ベンダーという立場で動いていた私は、自分の意見を強く押し出せず、コミュニケーションに苦労しました。
「海外駐在」と聞くと華やかなイメージを抱く人は多いでしょう。ですが現実は、日本で仕事をしている時よりも決定権が少なく、与えられた枠の中で動かざるを得ないこともしばしば。時差や文化の壁を超えながら、常に“制約条件”の中で戦っていました。
理想と現実のギャップ
そんな日々の中で、ふと学生時代を思い出しました。カナダやフランスで見た海外エンジニアの姿は、自信に満ち溢れ、グローバルな舞台で堂々と議論をリードしていました。しかし、自分はどうでしょうか。現地にいても、日本からのあいまいな指示を待ちながら、ベンダー意識に縛られたまま。憧れた理想とは、あまりにかけ離れていることに愕然としました。
「何が何でも海外で働きたい!」──その気持ちは本物です。でも、現実は甘くありません。立場を固めなければ這い上がることは難しく、道も見えない。まるで真っ暗なトンネルを、手探りで進むような感覚でした。
ベトナムで気づいたこと
ベトナムでの3か月間は、私にとって大きな気づきの連続でした。
・日本からの指示があいまいだと、現地は迷走する
・現地で完結させる仕組みがないと、最後は誰も責任を取れない
・「ベンダーだから」という意識に縛られると、主体的な行動ができない
これらを痛感し、「このままではダメだ」と心から思いました。出張ベースで海外に行くことは確かに貴重な経験です。しかし、自分が望んでいた“海外で活躍する姿”とは程遠いものだったのです。
コンフォートゾーンからの脱却
そこで私は決意しました。
「日立というシステムベンダーの殻から出てみよう」
と。
今の立場に甘んじていては、憧れた姿に近づけない。日本の指示に振り回されるのではなく、自分の意思で道を切り拓く必要がある。コンフォートゾーンに留まるのではなく、一歩踏み出して挑戦することこそが、自分の未来を作る唯一の道だと気づいたのです。
それは簡単な決断ではありませんでした。海外で這い上がるのは簡単ではなく、挑戦の道は険しい。ですが同時に、「ここで変わらなければ一生変われない」という強い危機感が背中を押しました。


明日からの一歩
海外で働くことは、決してバラ色ではありません。言葉の壁、文化の違い、決定権の制約──現実は厳しい。でも、だからこそ挑む価値があるのです。
学生時代に培った語学力、出張で積み重ねた経験、そして何よりも失敗から学んだこと。それらがすべて、次の挑戦への糧となっています。
憧れた理想と現実のギャップに苦しんだからこそ、「自分ならできる」と今は信じられます。這い上がる道が見えなくても、手探りで進めば必ず突破口は見つかる。
👉 明日からの一歩。私ならできる!
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