スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

9月, 2025の投稿を表示しています

ブログを翻訳

AIが一晩で1000ビュー!? ブログに起きた不思議な事件 ー アクセス数の謎、AIからの思わぬ訪問者

えっ!? 気づいたら、僕のブログのアクセス数が1000を超えていたんです。 普段は1日数十件、多くても100ビュー程度。そんな小さな数字の積み重ねに慣れていた僕にとって、この出来事はまさに「ちょっとびっくりしてしまった」瞬間でした。 家族もびっくりの瞬間 思わず「え!?」と声を上げてしまい、横にいた家族もびっくり。パソコン画面を二度見しながら、「これ本当に僕のブログなのか?」と疑いました。 ブログ運営の原点 もともと僕のブログは、ビュー数を伸ばすために書いているわけではありません。最初は「伸びたらお金になるのかな」と期待していた時期もありました。でも現実はそう甘くなく、収益化を意識するのはやめました。代わりに「自分の考えを整理する場」として、毎晩・毎朝パソコンに向かい、文章を積み重ねる日課になったのです。 AIと一緒に書く楽しさ もちろん、AIの力も借りながら。文章の整理や構成を助けてもらいつつ、自分の言葉を磨いていく。そんなプロセス自体が楽しいし、思考を深めるトレーニングになっています。 突然の1000ビュー事件 ところが今回の「1000ビュー事件」は違いました。個別の記事のアクセスは伸びていないのに、なぜか全体のアクセス数だけが急増している。これはどう考えても「人が見る動き」ではない。 AIの訪問者 そうです。AIですね。 きっとAIが何らかの形で僕のブログを検索したか、まとめてアクセスしたのだと思います。 「AIさん、うちのブログ検索しましたね。ありがとう。」と、心の中でちょっと笑ってしまいました。 数字に振り回されない自分のスタイル 同時にSNSマーケティングの専門家が直面する「数字の裏に潜む不自然な動き」にも思いを馳せました。人が読んでいるのか、AIが動いているのか、正確に把握するのは難しい。だからこそ、自分のスタイルで続ける強さが求められるのだと痛感しました。 自分のペースで続ける決意 だから僕は、やっぱり自分のペースで書いていこうと思います。ビュー数に振り回されず、収益化に執着せず、自分の考えを整理する時間を大切にして。 不思議なAI事件を経て、改めて「僕は僕のスタイルでやっていく」という決意を強めました。 明日からの一歩、私ならできる!

大企業の安心を手放す勇気!私が選んだ個人事業という道

  安定と自由、どちらも諦めない――次の一歩を踏み出すための選択 1. 安定の中の葛藤 「えっ!? 安定した大企業を捨てるなんて、正気の沙汰!?」――そう思ったあなたにこそ読んでほしい、私の挑戦の物語。 次の転職を考えるとき、私にはマスト条件があった。副業を許可してもらうこと。そして自分のアイデアを形にする自由を持つこと。住宅ローンもあり、大企業のネームバリューもある。保険も通りやすく、給料も安定している。家族を守るには、大企業で働き続けることが最適だった。特に住む場所や子どもの教育への影響は無視できない。だからこそ、私は大企業を辞めず、さらに上のポジションを目指す道を選んだ。 2. 自由を求める心 しかし、心の中では常に葛藤があった。大企業の枠の中では、自分が本当にやりたいことをすべて実現できない。毎年100以上のベンチャーやベンダーと接し、新規サービスやプログラム、商品の話を聞く中で、課題解決のアイデアは止まらなかった。「このアイデアを実現する方法は?」と、自問自答が続いた。 3. 企業の枠のリスク 同時に、企業で働くことのデメリットも見えてきた。会社の状況に自分の人生が左右され、もしクビになれば路頭に迷う可能性もある。MBA取得は高額でリスクが大きく、投資も思った成果は出ず借金だけが増えた。 4. 個人事業という決断 そこで私が出した次の決断は、「個人事業」という選択だった。コンサルティングか、商品販売か、まずはできることを少しずつ考えて形にしていく。企業という枠から離れることで、自由にアイデアを試せる環境を作ることができる。リスクはあるが、自分の手で人生を動かせる喜びがそこにはあった。     5. 明日からの一歩 個人事業はまだ始まったばかりだが、計画を立て、行動に移すことで、私のアイデアは現実のものとなる。家族の安心を守りつつ、自分の挑戦も諦めない。 「明日からの一歩、私ならできる!」――そう信じて、私は今日も最初のステップを踏み出す。

金融で失敗した僕が、不動産と妻と一緒に見つけた投資の答え

「えっ!? こんなにやっても全部マイナス!?」 投資を始めた頃の私は、まさにそんな絶望の渦中にいました。株もFXも仮想通貨も手を出しては失敗し、プラスマイナスゼロどころか、むしろマイナスばかり。やればやるほど泥沼にハマっていく感覚――投資って、まるで終わりのないゲームだと痛感しました。 投資は沼、でも学びは残る 最初は、短期的な利益を追いかけてばかり。リスクとリターンのバランスを無視していた結果、当然のように資産は減っていきました。投資の本質を理解していなかった私は、「やっぱり投資は沼だ」と諦めかけたのです。 保険という安心の投資 そんな中、救いとなったのが保険でした。多額のお金を入れて「安心+投資」という形で進められたのは、信頼できるCFP(ファイナンシャルプランナー)さんがついてくれたからです。プロが一緒に歩んでくれる安心感は、何よりも大きな支えでした。 不動産への挑戦 次に挑戦したのが「不動産投資」。ただ、正直なところ最初は怖かったのです。情報があふれ、何を信じればいいのか分からない。そこで私は、セミナー周りから始めました。なぜか参加するだけで3,000円もらえるセミナーもあり、ちょっとした小遣い稼ぎ感覚。気づけば1年以上かけて、100を超えるセミナーに参加していました。 学んだことは「人を信じる」 その過程で見えてきた答えはシンプルでした。 不動産投資は「信用できる会社」と「信頼できる担当」を見つけること。これは保険で出会ったCFPと同じ構造です。自分のお金と信用を一緒に運用してもらえるプロに出会うこと。そして、丸投げではなく、一緒に説明しながら歩いてくれる存在こそが必要なのです。 今、振り返って 結果として、私たちは不動産投資に一歩踏み出しました。大きな利益ではありませんが、今は少しずつプラスで回り始めています。何より妻と一緒に悩み、調べ、選んできたことが大きな財産になりました。 空いた時間でお小遣いを貯めよう!「アイリサーチ」     結論 金融では何度も失敗しました。でもその経験があったからこそ、保険で学び、不動産で挑戦し、「人を信じて共に進む」投資の形にたどり着けたのです。 だからこそ今は言えます。 👉 「私ならできる!明日から踏み出す」

保険って投資なの?混ぜるな危険!?僕が出した答え

  驚きの始まり 「えっ!? 保険って投資になるの?」 システム屋として大手企業に入社し、福利厚生も制度も充実していた私は、正直なところ保険には無関心でした。組合の保険は山ほどあるし、選択肢も多すぎて本当に困る。お金を稼げば何とかなる、独身の自分には必要ない。ずっとそう思っていました。 無関心からの転機 FPの資格を取得してもなお、自分自身の保険には見向きもしませんでした。ところが、結婚し、マンションを購入したことで状況は一変します。マンション附帯のサービスで東京海上日動のCFPの方と出会い、2時間みっちり話したのです。気づけば100万円の保険に加入していました。 保険に「投資」が入ると世界が変わる それまで「保険=健康のための備え」程度にしか考えていませんでした。しかし、そこに「投資」という観点が入った瞬間、一気に世界が変わったのです。 正直「混ぜるな危険」と思うかもしれません。けれど、不測の事態をカバーしつつ資産形成もできるなら、願ったりかなったりじゃないか。保険だけだと「無駄な出費」にしか思えなかったものが、投資が加わることで「合理的な判断」に変わったのです。 決断の裏側 貯金していたお金を投資型保険へとシフト。妻とも夜な夜な議論を重ねました。リスクは?流動性は?将来の教育資金や老後の備えは?答えはすぐには出ませんでした。それでも「守り」と「攻め」を兼ね備えた選択肢は、私たち夫婦にとって大きな安心感をもたらしたのです。 今の私のスタンス 今では以前よりも多くの金額を「保険+投資」に充てています。単なる保険料ではなく、未来への投資。守るだけでなく増やす視点が入ったことで、長期的な安心感が一層強まりました。 空いた時間でお小遣いを貯めよう!「アイリサーチ」       結論:私ならできる!明日から踏み出す 保険はただのコストじゃない。人生のステージや価値観に応じて、「投資」という新しい顔を見せるのです。 大切なのは、無関心から一歩踏み出して「自分に合う形」を見つけること。 👉 明日からの一歩、私ならできる!

システム屋が挑んだ投資の迷宮 ―10年後にたどり着いた答え

「えっ!? あれだけ資格を取ったのに、結局マイナスだったの!?」 そんな驚きから、私の投資ストーリーは始まります。システム屋として数字やロジックには自信があった私。しかし、最初に手を出した投資信託は、見事にマイナスで終わりました。 信託ではなく、自分で動かす投資へ 「誰かが運用している信託モノではなく、自分でやれば結果は変わるはずだ」。そう信じて次に選んだのは株、さらにFX、そしてビットコイン。システム開発で培った分析力を駆使すれば、きっとプラスにできる――そう考えていました。 FXでつかんだ一瞬の栄光 特に長く取り組んだのはFX。最初の頃は大きくプラスになり、まるで「仕込めば少しずつ儲かる」魔法のように思えました。調子に乗り、さらに追加資金を投入。しかし、相場は甘くありません。気づけば資金は減り、「こつこつどかん」という金融用語を体で学ぶことに。少しずつ稼いでは、一気に吹き飛ばす。その繰り返しが2年続きました。 みんな同じ道を歩く 振り返れば、これは決して私だけの経験ではありません。多くの人が通る道。大きく儲けず、小さく積み上げ、そしてある日ドカンと失う。人間の欲と相場の仕組みが見事にかみ合ってしまうのです。 手放す決断 結局、株もFXもビットコインも、今は一切持っていません。繰り返すマイナスに区切りをつけ、「もう、手を出さない」と心に誓いました。システム屋としての論理や仮説は大事ですが、投資の世界では必ずしも通用しない。それを痛感しました。 次の一歩はどこに? では、私にとっての投資とは何なのか。結論から言えば、「自分の経験・スキル・行動」に投資することこそ、最もリターンが大きいという答えにたどり着きました。金融商品に振り回されるのではなく、自分の価値を高める方がはるかに確実。 アンケートでおこづかい稼ぎ     終わりに システム屋が挑んだ投資の迷宮。その果てに気づいたのは、最も確実な投資先は「自分」だったということです。失敗を重ねたからこそ、この答えに出会えたのだと思います。 明日からの一歩、私ならできる!

システム屋が挑んだ投資の迷宮 ―10年後にたどり着いた答え

驚きの幕開け 「えっ!? あれだけ資格を取ったのに、結局マイナス!?」 システム屋として金融の仕組みに深く関わりながらも、自らの投資では大きな壁にぶつかった——それが私のリアルな経験です。 投資への入り口 私はこれまで、FX、株、投資信託、不動産、ビットコイン、先物と、多様な投資に手を出してきました。背景には、日立時代に金融のシステム担当をしていた経験があります。銀行や証券会社が使うシステムを作りながら、「仕組みを理解したい」と思い、FP、簿記、中小企業診断士、さらには銀行員向けの資格まで取得しました。 しかし、いくら資格を重ねても、「自分でやらないと分からない」という現実に、すぐに直面することになります。 初めての投資信託 最初に足を踏み入れたのは銀行でした。「投資信託」という言葉さえよく分からなかった当時、窓口で勧められるままに10万円を投じました。3年ほどの間に少しずつ追加投資もしましたが、ある日気づいたのです。入れたものがすべてマイナス、全滅でした。 「銀行に頼ってはだめだ。なんかいいことばっかり言ってたのに、信じちゃいけない。」 そう痛感した瞬間でした。 システム屋とお金の現実 私はシステムを作る側として、金融の裏側を知っているつもりでした。確かに、仕組みは理解できます。ですが、「お金を稼ぐ」という現実とは全く別物だったのです。 ただ、銀行員とのやり取りの中で多くを学びました。 市況とは何か、ニュースがどう為替や株価に影響を及ぼすのか。為替とは何か。そうした理解にたどり着くまで、10年近くの時間がかかりました。 苦い結末とリスタート 最初の投資信託の結果はマイナス50万円。結婚を機に、すべてを解約しました。いわゆる「損切り」です。これが私の最初の投資体験でした。 損失は痛かったですが、その過程で得られた「知識と経験」は、資格勉強以上の価値がありました。     明日への一歩 システム屋としての知識、資格で得た理論、そして投資での失敗。それらすべてが、私のキャリアと人生を形作っています。投資に「正解」はありませんが、挑戦からしか学べないものがあるのです。 だからこそ今、胸を張って言えます。 「明日からの一歩、私ならできる!」

3回目の転職で見つけた!僕だけの”譲れない条件”

「えっ!? そんな条件まで揃う会社があるの!?」 そう言われても仕方ないくらい、僕の3回目の転職、4社目への挑戦には数々の”譲れない条件”がありました。 僕が掲げた条件リスト 今回の転職で外せない条件は次の通りです。 年収が上がること 役職をもらえること 海外移住にチャレンジできること システム系であること、かつ挑戦できること 社内システムだけでなくIoTや新しい分野に関われること 副業を認めてもらえること 事業分野は問わないが、海外との連携があること かなり欲張りに見えるかもしれません。でも「これからの自分」を本気で描いたとき、自然とこの条件が浮かびました。 書類と面接のプロセス 実際に動いてみると、10社以上から書類を送っていただき、そのうち5社ほどと面接をしました。オンライン面接やオフサイト面接を通じて感じたのは、どの会社も本気で人材を探しているということ。 意外にも「海外本社と連携して日本をリードして欲しい」というオファーが多く、年収アップの話も複数社から出ました。正直、これまで社内システムばかりだった僕にとって、IoTや海外展開といった言葉は大きな挑戦に思えましたが、不思議とワクワクが勝っていました。 最後の決断 最終的に選んだのは、年収が一番高い会社ではありませんでした。決め手になったのは「副業支援」です。 この会社は、過去の転職で僕を支えてくれたスペイン人CIOが在籍している企業。偶然ではなく、条件を提示し、彼とも交渉した結果、理想の環境を引き寄せることができました。 僕にとって「副業を許される」というのは、自由な発想と未来の成長を保証してくれる大きな後押しでした。そして結果的に、家族も納得のうえでの転職となりました。     結論 転職は条件を明確にすればするほど、実現の可能性が高まります。今回の経験で学んだのは「欲張りでいい、自分の未来を具体的に描けば、その条件に合う会社は必ず現れる」ということです。 僕はこうして理想の条件を手に入れました。そして今、新しい舞台に立っています。 「明日からの一歩、私ならできる!」

上司の転職が教えてくれた、私の次の一歩

衝撃の知らせが胸を打つ 「えっ、あの人が転職!?😲」――オフィスでそのニュースを聞いた瞬間、胸が高鳴った。 直属ではないけれど、人生を変えるキーパーソン 私にとってその人は、ただの上司ではなかった。直属ではないものの、私の思いを理解し、かつ会社の重要な意思決定にも影響力を持つ“キーパーソン”。スペイン人の彼は、常に私の考えをサポートしてくれた。その人が転職するという事実は、私にとって大きな衝撃であり、同時に学びの瞬間でもあった。 新たな挑戦が示す選択の自由 彼は能力のある人で、新たな挑戦を求めていた。Bostonに集中する企業環境の中で、どのように自分のキャリアを活かすか悩んでいたが、結局、新たな道を選んだのだ。「なるほど」と思った。自分の思いや方針が企業の方針とずれるなら、別の場所を探せばいいのだ――そのシンプルながらも強い選択は、私に大きな刺激を与えた。 自分の一歩を踏み出す決意 その出来事をきっかけに、私は再び転職活動を意識し始めた。実は、以前から常に転職エージェントとは接点を持ち、自分の市場価値を確認していた。しかし、このときは本格化させる決意をした。社内で改善活動を行っても、組織の壁に阻まれることが多く、思うように変化を起こせなかったからだ。 空いた時間でお小遣いを貯めよう!「アイリサーチ」     未来を切り拓くために 「ならば、自分の成長と挑戦のために、新しい環境を探すべきだ」――そう考え、私は3回目の転職活動に踏み出した。彼の選択は、私に勇気を与え、そして自分自身の未来を自分で切り拓く決意を後押ししてくれたのだ。 転職は単なるキャリアチェンジではなく、人生を前に進めるための一歩。自分の価値観と向き合い、成長を望む場所を選ぶことができる力を教えてくれた。だから私は、今日も明日も、一歩を踏み出す。

えっ!? それ、俺の提案じゃなかったの!?――会社で気づいた“アイデアの持ち主”という幻想

  うわっ!」思わずPCの画面を閉じそうになった。 なぜならそこに映っていたのは、まぎれもなく自分が何カ月も調査し、ヒアリングを重ね、汗をかいて提案したプロジェクト。だが、タイトルも責任者も違う顔ぶれ。しかも“ビジネス側主導”というタグが付けられ、堂々と動き始めていたのだ。 ✨昇進が見えないサラリーマンの日常 サラリーマン生活も長くなり、昇進は頭打ち。社内で提案しても、なかなか通らない。そんな閉塞感の中で、私はせめて「改善プロジェクト」で突破口を作ろうと必死だった。 システム担当の立場から、いろいろ調べ、現場の声を聞き、改善案を資料に落とし込んだ。 「これはいける!」と胸を張れる提案だった。 ⚡衝撃の瞬間 ところが、ある日気づいてしまった。 私の提案は少し形を変え、別プロジェクトとして動き出していたのだ。 しかも、それは「システムからの改善」ではなく「ビジネス側の戦略プロジェクト」として扱われていた。 正直、驚きと悔しさが入り混じった。 自分のアイデアが認められた!と一瞬うれしくなった。 でも、そこに私の名前はなかった。 アサインされたシステム担当も、もちろん自分ではない。 🌍グローバルでの自負と現実 私はグローバルプロジェクトで、日本のクラウド移行を一人でリードしてきた。 「日本のことなら私が一番語れる」──そんな自負があった。 だから当然、自分が選ばれるものと信じていた。進め方も頭の中で描いていた。 しかし現実は違った。 その役割を任されたのは、日本で新しく採用されたインド人エンジニア。 彼は日本のリーダーに採用され、そのリーダーの指示通りに動く人物だった。 なるほど。後から入ってきたリーダーは、自分の“息のかかった人材”を集め、チームを固めていく。 長く中で知っていた人が残るわけじゃないのだ。 💡気づいたこと 思い返せば、自分も転職したときは同じ立場だった。 「外から来た新しい人材」として、内側の人を押しのけて仕事をしてきた。 今回は逆の立場になっただけ。 会社にとっては、“誰の提案か”なんて関係ない。 「アイデアありがとう。あとはこっちでやっておくから」──そういう世界なのだ。 空いた時間でお小遣いを貯めよう!「アイリサーチ」       🔑結論:企...

MBAに投資すべき?私が家族とキャリアで出した答え

衝撃の一言から始まった迷い 「えっ、子供3人の教育を犠牲にしてまでMBAに行くの!?」──最初にそう思った瞬間、私は自分のキャリアと家族の天秤を感じていました。MBAは、キャリアの選択肢として誰もが一度は考えるもの。しかし、現実問題として費用は決して小さくありません。 中小企業診断士での経験 私は時間をかけて中小企業診断士を取得しました。資格そのものはやりがいがありましたが、独立して元が取れるほど活用することは難しく、少し物足りなさを感じていました。資格は知識の証明であって、必ずしも収入やキャリアを飛躍させるものではない──そんな現実を目の当たりにしたのです。 転職市場で見たMBAの実力 転職の際、MBA保持者として入社する人も何人か見かけました。「やっぱりMBAは転職に強いのか?」と思いました。しかし、人によって結果はまちまちで、結局はスキルと経験、そして運も絡むことを痛感しました。MBAに過度な期待をかける時代ではない、というのが正直な印象です。 Executive MBAへの挑戦 さらに高度人材向けのExecutive MBAプログラムも存在します。情報が限られているため、私はあらゆる説明会に足を運び、英語力もブラッシュアップしながら検討を重ねました。ちょっと信用できそうなコンサルにお金を払ってみたこともあります。しかし、支払いを済ませた瞬間から対応が雑になり、信頼感は揺らぎました。 メンターとの出会い そんな中、Googleで働くMIT出身のMBA保持者がメンターとして付くことになりました。「GAFAだから…」とワクワクしましたが、冷静に考えると疑問も湧きました。Googleは検索とマーケティングに強みのある会社、Takedaは製薬企業。MBA取得に数千万円を投じ、家族の教育を犠牲にしても、本当に意味があるのか? MBA取得のリスクと悩み さらに悩まされたのは、将来の確約が何もないことです。MBAを取得して年収が本当に何倍になるのか? 次の企業が理想通りなのか? 投資に見合う結果が得られる保証はありません。詐欺まがいの話にも遭遇し、心は揺れ続けました。 最終的な選択 最終的に私は家族を選びました。選択肢は無限にあるものの、自分がこれまでシステム屋として培ってきた経験とスキルを信じることが最も価値のある投資だと判断したので...

飲み会禁止!? グローバル企業で編み出した、私流アピール術

衝撃のスタート 「えっ!? あれほど日本で成果を出したのに、世界では“ひとつの複雑な国をうまく回した”に過ぎないの!?」──グローバル企業に転職して間もない頃、私はこの現実に強いショックを受けました。 私は日本で確かに大きな成果を出したつもりでした。システム改革や業務改善、全体最適化の提案…。社内では「成果を出した人」として評価されていたのです。ところが、グローバル企業の視点では、日本は広大な組織の“リージョンのひとつ”にすぎません。たとえその会社が「日本」という名前を冠していようと、全社から見れば数ある地域の中の1つでしかなかったのです。 そのギャップは、まるでジェットコースターの落下のように私を揺さぶりました。「じゃあ、私はどうやってこの世界の中で存在感を出していけばいいのだろう?」──そう自問自答する日々が始まりました。 🍶飲みにケーションが通じない世界 日本企業であれば、飲み会で上司や仲間と親しくなり、距離を縮めることができます。いわゆる“飲みにケーション”です。しかし、グローバル企業ではこの手法が一切通じません。時差も文化も異なり、オフィスで顔を合わせる機会さえ限られています。 もちろん、リーダーが来日した時には、積極的にオフィスに出向きました。雑談でもいいから直接話す機会を作る。それが関係を築くチャンスになるからです。でも実際には、彼らが日本に来る回数は年に数えるほどしかありませんでした。 「日本にいた時は、いかにコミュニケーションの機会が多かったのか」──そのありがたさを身に染みて感じました。待っていては関係性は築けない。だからこそ、私は自分から新しいアピール方法を探す必要があったのです。 📊PPTによるアピールの日々 最初に取り組んだのは、改善アイデアをPowerPointにまとめることでした。思いついたらすぐにスライドにし、会議のたびに説明する。言葉だけでは忘れられるアイデアも、図解や数字を伴えば記憶に残りやすいと考えたのです。 当時の私は“全体最適化”に強いこだわりを持っていました。だから提案の多くは、組織やシステム全体をどう最適化できるか、という内容ばかり。部分最適ではなく全体を見渡す。これは日本国内では高く評価されました。しかし今振り返ると、もっと別の切り口──突き抜けた発想や異質なアイデア──を示してもよかったの...

「リモートなのにリモートじゃない!?」グローバル企業で知った日本の立ち位置

衝撃のスタート 「えっ!? グローバル企業って、もっと“リモート”じゃないの!?」──これが、私が入社して最初に感じた正直な感想でした。時差を超えて世界中とつながる、場所に縛られない働き方。そういうものをイメージしていたのです。ところが実際に飛び込んでみると、そのイメージは大きく裏切られました。 想像以上に「リアル」だった世界 オフィスは世界中に点在し、社長やリーダー陣は週単位で世界を飛び回る。タウンホールはニューヨーク、ロンドン、シンガポールと拠点を移し、現地参加もあればオンライン中継もある。確かに、日本にいながらグローバル会議にリモートで出席できる環境は整っていました。しかし、ただ画面越しに参加するだけでは決して「中心」には近づけない。そのことを、入社して数か月で痛感しました。 日本人は自分ひとり 多くの会議で、日本人は私ひとり。だからこそ「日本の状況を説明してくれ」と聞かれるたび、背中を押されるように発言しました。日本という国を代表しているような感覚。責任感と緊張感の中で、必死に英語を駆使して言葉を紡ぐ日々でした。最初は誇らしくもありましたが、同時に孤独でした。誰もフォローしてくれる人はいないのですから。 不思議な現象の正体 そんな中で気づいたのは、ひとつの“不思議な現象”でした。リーダーたちが次々にボストンへ移っていくのです。スイスからも、アジアからも、トップクラスの人材が次々とボストンに拠点を移す。上層部へ行けば行くほど、居場所はボストンに近づく。逆に、移れない人は数年以内に会社を去っていく。グローバルプロジェクトを仕切っていた有能な人材さえ、その流れに逆らうことはできませんでした。 リモートは「下」にしかない 私はやがて悟りました。会社全体を動かす決定権を持つ人々は、社長の近くにいなければならない。オンラインではなく、オフサイトで隣に座り、毎日の空気を共有する必要がある。リモートで働けるのは、あくまで各リージョンのサポートやオペレーション。リモートで回せるタスクはインドや東ヨーロッパに集約されていく。つまり、「グローバル企業はリモートだ」という私の幻想は、上層部の現実とはかけ離れていたのです。 昇進の条件は「成果」+「移住」 その組織戦略の中で、昇進の条件は明確でした。「成果を出す」ことは当然として、それ以上に「引っ越し可能」である...