成功者の言語化が学びになる。でも、同じ数だけ“見えない失敗”がある。
■うわっ、なんて眩しい世界なんだ!
アクセラに参加すると、まず驚くのが“講師陣の存在感”だ。始動プロジェクトのようなアクセラに期待するものの一つは、間違いなく講師だろう。有名かどうかなんて関係ない。**「成功してきた人間の経験が、言葉として聞ける」**これが価値だ。
メンターも同じだ。
賞を取ってきた人、ビジネスで市場を突破した人、名前が売れている人——成功してきたストーリーを惜しみなく共有してくれる。
こちらにとっては、それだけで十分刺激になる。
しかし、気を付けたい視点がある。
それは、「成功ストーリーしか出てこない」という事実だ。
■「成功者しか登壇できない場」がつくる錯覚
講師やメンターに“失敗し続けた人”は登場しない。
途中で諦めた人、何かが足りなかった人、不運だった人——その姿は表に出ない。
結果、こんな錯覚が生まれる。
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成功が正しい
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失敗はダメ
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「みんなできるなら、自分もできるはず」
だが、それは表層でしかない。
■成功の裏に、必ず存在する「失敗の断層」
講師たちが成功した背景には、彼ら自身の努力がある。
しかし同時に、「同じ事業を同じタイミングで始めた誰かが消えていった」現実もある。
彼らは見たはずだ。大量の失敗例を。
アクセラで聞くべきは、こうだ。
なぜその人は生き残ったのか?なぜ“成功者”と呼ばれたのか?
その答えには、運も、偶然も、踏ん張りも、決断もある。
そして、想像すべきは“失敗のストーリー”の方だ。
■見えない失敗を想像しながら、言語化を浴びる
成功者の発言に触れるとき、私は必ず“もう一つの前提”を重ねるようにしている。
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ここに立てなかった人の数
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途中で折れた人の葛藤
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運に左右された瞬間
それらを想像したとき、言葉の価値は二倍になる。
そして、自分に問いが返ってくる。
「自分は失敗するかもしれない。それでも戻れる道を描けるか?」
■明日は失敗するかもしれない。でも——
失敗し続けた人は舞台に出てこない。
でも、“失敗から戻ってきた人”はいる。
その姿がある限り、リカバリーは可能だ。
すべてが成功するとは限らない。
それでも、失敗を想像し、道を描き、踏み出す意味はある。
明日は転ぶかもしれない。
でも、私はこう終えたい。
——私ならできる!明日から踏み出す。
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