黒い画面とテレビの誘惑、そして組織開発へ。遠回りに見えて一直線だった話
うわっ、人生の分岐点って、こんなに静かに始まるのか!
今では自信をもって「システム屋です」と言える。でも、最初からそう名乗る覚悟があったわけじゃない。振り返ると、その入口はずっと昔、リビングの片隅にあった。
■ 小学生、最先端のおもちゃと出会う
プログラムを最初に組んだのは、小学生の頃だ。
父が当時としては最先端だったPC-9801Fを買ってきて、リビングに置いてくれた。今思えば、あれは英才教育でも何でもなく、ただの「未来の塊」だった。
テレビに背を向けて机に向かう配置。
テレビっ子だった僕は、すぐに画面の誘惑に負けて振り返ってしまう。でも、黒い画面に文字を打ち込むあの機械は、抗えない魅力を持っていた。最先端のおもちゃ、まさにそれだった。
■ 黒い画面に打ち込む、意味の分からない文字
そこで初めて、黒い画面にプログラムを打ち込んだ。
言語は何だったのか?正直、覚えていない。たぶんアセンブリだったと思う。英語もまだ勉強していない。アルファベットを「意味」ではなく、「形」として追いかけるだけの作業。
それでも、動いた。
画面が変わった瞬間、地味だけど、確かな嬉しさがあった。「自分が何かを動かした」という感覚。それは、今も変わらずシステム屋の原動力になっている。
■ 次に本気で向き合ったのは、大学研究室
次にプログラムと本気で向き合ったのは、大学の研究室だった。
C、C++で統計解析のプログラムを書く日々。徹夜しても原因が分からないバグ。今よりずっと非力なコンピューターで、シミュレーションに何日もかかる。
効率も洗練もされていない。
あくまで「自分でプログラムを組んでいる」レベル。それでも、問題と向き合い、試行錯誤を繰り返す時間は、確実に自分を鍛えていた。
■ 本当に足を踏み入れた瞬間
やっぱり「システム屋に足を踏み入れた」とはっきり思うのは、日立に就職が決まった時だ。
Javaを勉強し、個人ではなく「組織で作るプログラム」の世界に入っていく。そのための試験勉強をしているとき、ふと、こう思った。
——ああ、これが自分の生きる世界なんだ。
はっきりした確信じゃない。でも、おぼろげに、確実にそう感じたことを覚えている。
■ そして今
今では、迷いなくシステム屋だと言える。
入口は曖昧で、道中は遠回りに見える。でも、点はちゃんと線でつながっていた。
小学生の黒い画面も、研究室の徹夜も、組織開発の学びも、全部が今につながっている。
私ならできる!明日から踏み出す
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