スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

ラベル(システム屋の原点)が付いた投稿を表示しています

ブログを翻訳

もう限界!?——入社1年目で悟った「プログラマーの壁」

デジタルの声が聞こえた日、世界の広さを知った うわっ、これは才能の差だ……!? 社会人になり、最初に味わった“圧倒的な敗北感”を、私は今でもはっきり覚えている。 空いた時間でお小遣いを貯めよう!「アイリサーチ」       ■ システム屋になると決めた日立でのスタート 私は「システム屋」として働くことを決め、日立に入社した。 当時は今ほど職種のカテゴリ分離が明確ではなく、システムエンジニアがインフラも担当し、プログラムやアプリケーションはプログラマーが担う、そんな時代だった。 そして私は、プログラマーを取りまとめる部署に配属された。 もちろん、フルスタックのプログラマーへの憧れも強かった。 ■ オブジェクト指向の熱狂と、Javaの時代 時代はオブジェクト指向真っ只中。 世界ではJavaが大規模アップデートを重ね、日本では「Cobolは終わる」と叫ばれていた。 「Javaを極めれば、プログラマーのトップを目指せる」 そう信じ、私は日々、徹夜でコードを眺め続けていた。 ■ 見つからない“何か” ある日、別のプログラマーからヘルプが入った。 「うまく動かない。でも、どこにバグがあるかわからない」 私も他のメンバーも加わり、必死にコードを追った。 確かにおかしい。でも、原因が見えない。 スペースが潜んでいる? 半角・全角の問題? 目を皿のようにして、ひたすら確認を続けた。 「いや、これ…ムズイ……」 そんな言葉が、心の中に浮かびかけた瞬間だった。 ■ 「見つけた」の一言 静まり返った中で、一人の同期がつぶやいた。 「見つけた」 大学卒の、まだ若い女の子だった。 毛布をかぶってパソコンを眺めている姿が印象的な彼女が、その難解なバグをあっさり見つけたのだ。 「え?なんで?どうやって?」 誰もが不思議がった。 彼女は少し照れたように、こう言った。 「声が聞こえた」 「……???」 ■ 才能という現実 衝撃だった。 これがデジタルネイティブ。 これが才能。 私には、どうしても“デジタルの声”は聞こえなかった。 入社1年目にして、プログラマーとしての限界を知った瞬間だった。 でも同時に、世界の広さを知った日でもあった。 ■ だから、次の道を選んだ 向いていないと知...

ここが入口だったの!?——気づけば“システム屋”になっていた僕の原点

黒い画面とテレビの誘惑、そして組織開発へ。遠回りに見えて一直線だった話 うわっ、人生の分岐点って、こんなに静かに始まるのか! 今では自信をもって「システム屋です」と言える。でも、最初からそう名乗る覚悟があったわけじゃない。振り返ると、その入口はずっと昔、リビングの片隅にあった。 空いた時間でお小遣いを貯めよう!「アイリサーチ」       ■ 小学生、最先端のおもちゃと出会う プログラムを最初に組んだのは、小学生の頃だ。 父が当時としては最先端だったPC-9801Fを買ってきて、リビングに置いてくれた。今思えば、あれは英才教育でも何でもなく、ただの「未来の塊」だった。 テレビに背を向けて机に向かう配置。 テレビっ子だった僕は、すぐに画面の誘惑に負けて振り返ってしまう。でも、黒い画面に文字を打ち込むあの機械は、抗えない魅力を持っていた。最先端のおもちゃ、まさにそれだった。 ■ 黒い画面に打ち込む、意味の分からない文字 そこで初めて、黒い画面にプログラムを打ち込んだ。 言語は何だったのか?正直、覚えていない。たぶんアセンブリだったと思う。英語もまだ勉強していない。アルファベットを「意味」ではなく、「形」として追いかけるだけの作業。 それでも、動いた。 画面が変わった瞬間、地味だけど、確かな嬉しさがあった。「自分が何かを動かした」という感覚。それは、今も変わらずシステム屋の原動力になっている。 ■ 次に本気で向き合ったのは、大学研究室 次にプログラムと本気で向き合ったのは、大学の研究室だった。 C、C++で統計解析のプログラムを書く日々。徹夜しても原因が分からないバグ。今よりずっと非力なコンピューターで、シミュレーションに何日もかかる。 効率も洗練もされていない。 あくまで「自分でプログラムを組んでいる」レベル。それでも、問題と向き合い、試行錯誤を繰り返す時間は、確実に自分を鍛えていた。 ■ 本当に足を踏み入れた瞬間 やっぱり「システム屋に足を踏み入れた」とはっきり思うのは、日立に就職が決まった時だ。 Javaを勉強し、個人ではなく「組織で作るプログラム」の世界に入っていく。そのための試験勉強をしているとき、ふと、こう思った。 ——ああ、これが自分の生きる世界なんだ。 はっきりした確信じゃな...