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世界の“土台”を触ってしまった——プラットフォームづくりが教えてくれたこと

「ユーザーの、その先」を考える仕事に出会った2年目後半〜3年目 うわっ、こんな“底”まで考えるのか!? 社会人として、日立人として2年目の後半から3年目にかけて、私はプラットフォーム構築という仕事に携わった。 当時の私は、「システムはユーザーが使うもの」という考えを当然の前提として持っていた。     ■「お客様」だけでは終わらない視点 しかし、プラットフォームの世界は違った。 そこでは、システムを“要求するお客様”だけでなく、 その上でシステムを作る人 のことまで考えなければならない。 ユーザーのさらに奥、もっと奥底を考える——それは、私にとって初めての、そして特殊な経験だった。 ■見えないところで起きていた競争 当時、サーバ構築競争があり、DB構築競争があった。 日立には、Cosminexusというサーバ製品、HiRDBというDB製品、JP1という運用管理製品がある。 そこに、JustwareがJavaのプラットフォームとして入り込んでいく。 Globalで勝てている日本発のソフトウェア製品は多くない。 日本では、大企業がそれぞれ競争している。 そんな厳しい世界の中に、少しでも関われたこと自体が、今振り返ると本当に貴重だった。 ■JavaとO’Reillyと、終わらない理解 プラットフォーム構築には、Javaの深い理解が不可欠だった。 机の横には、分厚いO’Reillyの本。 何度読んでも意味不明。 「これを理解して実装している人がいるのか…」 レベルの差を、嫌というほど感じた。 一時期、O’Reilly本が並ぶコーナーに何時間も立ち読みしていた。 一冊何千円。簡単に買えない。 でも、ネットより情報が正確だと信じられた。 コードを頭に叩き込み、本屋を出たらすぐメモ。 家に帰って実装。そんな日々だった。 ■天才と限界と、不安 プロジェクトでは、数人の天才がプラットフォームをリードしていた。 会話はマニアを超え、もはや異次元。 「ここでやっていけるのか?」 不安と、「でも、やらないと!」という気持ちに押される毎日。 この仕事は、間違いなくプロフェッショナルで、そして難しい。 だが同時に、 ものづくりの最深部を覗いた経験 でもあった。 ■今だから言えること プラットフォー...

もう限界!?——入社1年目で悟った「プログラマーの壁」

デジタルの声が聞こえた日、世界の広さを知った うわっ、これは才能の差だ……!? 社会人になり、最初に味わった“圧倒的な敗北感”を、私は今でもはっきり覚えている。 空いた時間でお小遣いを貯めよう!「アイリサーチ」       ■ システム屋になると決めた日立でのスタート 私は「システム屋」として働くことを決め、日立に入社した。 当時は今ほど職種のカテゴリ分離が明確ではなく、システムエンジニアがインフラも担当し、プログラムやアプリケーションはプログラマーが担う、そんな時代だった。 そして私は、プログラマーを取りまとめる部署に配属された。 もちろん、フルスタックのプログラマーへの憧れも強かった。 ■ オブジェクト指向の熱狂と、Javaの時代 時代はオブジェクト指向真っ只中。 世界ではJavaが大規模アップデートを重ね、日本では「Cobolは終わる」と叫ばれていた。 「Javaを極めれば、プログラマーのトップを目指せる」 そう信じ、私は日々、徹夜でコードを眺め続けていた。 ■ 見つからない“何か” ある日、別のプログラマーからヘルプが入った。 「うまく動かない。でも、どこにバグがあるかわからない」 私も他のメンバーも加わり、必死にコードを追った。 確かにおかしい。でも、原因が見えない。 スペースが潜んでいる? 半角・全角の問題? 目を皿のようにして、ひたすら確認を続けた。 「いや、これ…ムズイ……」 そんな言葉が、心の中に浮かびかけた瞬間だった。 ■ 「見つけた」の一言 静まり返った中で、一人の同期がつぶやいた。 「見つけた」 大学卒の、まだ若い女の子だった。 毛布をかぶってパソコンを眺めている姿が印象的な彼女が、その難解なバグをあっさり見つけたのだ。 「え?なんで?どうやって?」 誰もが不思議がった。 彼女は少し照れたように、こう言った。 「声が聞こえた」 「……???」 ■ 才能という現実 衝撃だった。 これがデジタルネイティブ。 これが才能。 私には、どうしても“デジタルの声”は聞こえなかった。 入社1年目にして、プログラマーとしての限界を知った瞬間だった。 でも同時に、世界の広さを知った日でもあった。 ■ だから、次の道を選んだ 向いていないと知...