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年が変わるだけで心拍数が上がる!?——システム屋と大晦日の静かな戦い

カウントダウンの裏側で、私たちが気にしていること うわっ、紅白よりもログ画面を見ている自分がいる! 世の中が年越しムード一色になるころ、システム屋の頭の中は少し違う方向に向いている。私はシステム屋としては、正直ラッキーな方だと思う。それでも大晦日が近づくと、自然と背筋が伸びる。 空いた時間でお小遣いを貯めよう!「アイリサーチ」       年越しは、システムにとって気を遣う行事 年末年始は、システムにとって「何も起きないこと」が最大の成果だ。 何か設定が間違っていないか。年に伴う設定は入っていないか? 「今年は年号も同じだし大丈夫だろう」「年の表示も1桁から2桁になる年でもない」 そんな確認を一つひとつ潰していく。 よし、今年はまだおとなしい…はず 「よし、今年はまだおとなしい」 そう思っていても油断は禁物だ。年表示に伴うもの、月の変更に伴うもの、あるいは別のシステムとの連携に伴うもの。複雑に絡んだシステムでは、こうしたイベントの時が一番緊張する。 銀行システムと“伝説の年越し” 一時期、銀行のシステムでは、必ず長期休暇に変更が入っていた。 多くのシステム屋が休日返上でオフィスに集まり、日をまたぐ瞬間を見守る。年始はオフィスで迎える——そんな年越しを、多くのシステム屋が経験してきた。 僕はラッキーだったシステム屋 幸いにも、私は年をまたぐプロジェクトに関わることが少なかった。 システム屋としては、かなりラッキーな方だと思う。 もちろん、ゼロではないが、常に最前線というわけではなかった。 運用は、少しずつ変わってきた 今は少し状況が変わってきている。 システム移行作業の範囲を小さくし、なるべく通常の土日や平日に分散していく方式が主流になりつつある。年末年始に大量のエンジニアを抱えると、コストがかかる。特別給料で単価も高くなるし、多くの人が嫌がるためサポートも薄くなる。 「何もない日」に作業するという選択 さらに、年末年始はイベントに伴う急な利用があり、予期しない問題も起こりやすい。 それならば、影響を最小限にし、しっかりとお客様に通知をし、何もない平日や土日に対応する。その方向に、業界全体が舵を切っている。 システムは、生活インフラになった システムは、もはや一部の専門家だけ...

こんなに分厚いの!?——巨大企業の“層”に飲み込まれた日

日立製作所のプロジェクトで知った、日本を支える構造の正体 うわっ、想像していた世界と全然違う! 研修が終わり、Web研修も終え、いよいよ実際のシステム開発プロジェクトに配属された日のことだ。胸の奥にあったのは、「ついに現場だ」という高揚感だった。     ■ 日本を代表する大企業・日立製作所 日立製作所は、日本を代表する大企業だ。電力、交通、産業、IT——世界中のインフラを静かに、しかし確実に支えている。金融分野でもその存在感は圧倒的で、日本のほぼすべての銀行に日立のシステムが入り込んでいる。特に大きな銀行であれば、どこかの領域で必ず日立に頼っていると言っていい。 ■ たった一つの銀行、その裏側 そんな日立の中で、私は「一つの銀行のシステムを開発するプロジェクト」に入ることになった。巨大企業のプロジェクトだから、日立の社員だけで回しているのだろう。正直、そう思っていた。 だが、現実は違った。 ■ 正式メンバーではなかった私 私は日立製作所の正式なメンバーとしてではなく、日立製作所の子会社である 日立システムズ の先輩の下についた。少し意外だったが、もともと日立システムズにも行こうかと考えていたこともあり、勝手に親近感を覚えた。 ■ 初めて聞いた言葉の数々 プロジェクトが始まって、初めて知る言葉が次々と出てくる。 「元受け」「二次受け」「三次受け」——。 一つのプロジェクトに、数社が関わっているのだ。日立が元受けとして受注し、その下に日立グループ会社、さらにその下に協力会社が連なる。特に日立グループの下請けが多いことに驚かされた。 ■ 日立って、製作所だけじゃない 「日立って、製作所だけじゃないんですね」 思わず口に出た。グループ会社全体を入れたら、一体何人になるのだろう。一つのプロジェクトを、自分たちの“グループ”だけで回せてしまう。その層の厚さに、ただただ圧倒された。 ■ これが世界を支える大企業 多重構造は、非効率に見えるかもしれない。だが、この分厚い層こそが、止まってはいけない銀行システムを守り、世界のインフラを支えている。巨大企業とは、規模だけでなく「構造そのもの」が強さなのだと知った瞬間だった。 私は、この分厚い層の一番下にいたかもしれない。 でも、その全体を知れたことは、何よりの財...

研修で銀行を作るの!?——2カ月で叩き上げられた“システム屋”の原点

日立の手厚すぎる研修が、モノづくりの覚悟を教えてくれた夏 うわっ、まさか 研修で銀行システムを丸ごと作る とは思わなかった! 日立は言わずと知れた大企業だ。新人教育も徹底していて、最初の3カ月はみっちり基礎研修。ITの基礎から、業務の考え方まで、これでもかというほど手厚い。正直、「ここまでやるのか」と驚くほどだった。 空いた時間でお小遣いを貯めよう!「アイリサーチ」       ■ 研修は終わりじゃなかった 3カ月の研修が終わり、ようやく現場配属かと思った矢先。 「金融システム担当は、別途集まってください」 そう言われて始まったのが、 さらに2カ月の専門研修 だった。 ■ 5人で作る“超簡易Web銀行” 課題はシンプルで重い。 5人1チームで、Web銀行のシステムを作る。 預金、融資、送金、投資。銀行のメイン機能に加え、各種金融商品の説明ページまで用意する。 あくまで“超簡易”だが、立派なWeb銀行だ。 ■ フワッとした要件からのスタート 最初に渡されるのは、驚くほど曖昧な要件。 そこから自分たちで要件定義を組み立て、基本設計を行う。 基本設計が合格して、ようやく詳細設計。 詳細設計が合格して、やっとプログラミング。 研修とは思えない、ガチの工程だった。 ■ Javaを少し習っただけで、全部作る 使うのは、研修で少し教わったJava。 自分たちでコードを書き、サーバにDeployしていく。 いざ繋げようとすると、 サーバ設定と合わない。 「なんで動かない?」 うんうん唸りながら、設定とプログラムを何度も見直した。 ■ 時間制限はない、でも焦る 研修なので、形式上は時間制限はない。 でも、夏の2カ月という期限が見えてくると、自然と焦る。 朝から来てどんどん作業し、夜も残る人が多かった。 終電に走ったことも一度や二度じゃない。 ■ 画面が見えた瞬間、世界が変わる 設計しているときは、正直イメージがぼやけていた。 でも、プログラムを書いて画面が少しでも表示されると、一気にイメージがクリアになる。 早く終わったチームは、隣のチームを手伝う。 夜遅くまでやるのも、なぜか楽しかった。 ■ あくまで研修、でも本気 これは研修だ。評価もつく。 でも、目の前の課題には全員が本気だった。...

ここから共同生活!?——歴史ある大企業が守り続ける“社会人の入口”

日本をリードする企業が、新人に用意した“最初の学びの場” うわっ、いきなり相部屋!? 社会人のスタートは、想像していたオフィスデビューではなく、少し年季の入った建物の前に立つところから始まった。 空いた時間でお小遣いを貯めよう!「アイリサーチ」       ■ 日本をリードする「日立」という存在 日立製作所は、日本を代表する大企業だ。 エネルギー、IT、インフラ、社会システム——ほぼすべての技術分野をカバーし、日本の成長を長年支えてきた。 そんな巨大企業には、今でも“らしい”習慣が残っている。そのひとつが、新入社員向けの「寮」だ。 ■ 男性は“ザ・寮”、女性は借り上げマンション 女性社員には借り上げマンションが用意される一方、男性は文字通り「ザ・寮」。 寮長さんが常駐し、6階建てほどの古いマンションを一手に管理している。 どこか昭和の空気が残るその建物は、「これから社会人になる」という実感を強制的に与えてくる場所だった。 ■ 1年目は、原則2人部屋 特に衝撃だったのは、1年目は原則2人部屋というルール。 16畳ほどの大きな部屋に、見知らぬ同期と2人で入る。 部屋割りはすでに決められており、選択権はない。 同じ部屋の相手とは、その瞬間が“初対面”だ。 ■ 相部屋の相手は、同い年の東大卒エンジニア 私の相部屋は、同い年の東大卒エンジニアだった。 私は2年間海外に出ていたため、同期の中では少し年上。でも、彼とは年齢が同じ。 彼もまた、なかなか面白い人生を歩んできた人だった。 ■ 夜な夜な続く、人生トーク 仕事の話、学生時代の話、将来の不安や期待。 夜な夜な、いろいろな話をした。 気が合えば、本当に心強い仲間になる。 この距離感で語り合える経験は、正直、会社に入らなければ得られなかったと思う。 ■ もちろん、うまくいかない部屋もある 一方で、すべてがうまくいくわけではない。 全く気が合わず、部屋の真ん中に簡易的な間仕切りを置き、険悪な空気が漂う部屋もあった。 本当に、人による。 ■ 寮は「同期とのコミュニケーション」を学ぶ場所 それでも、この寮生活で学んだことがある。 それは、社会人としてのコミュニケーションだ。 価値観の違う相手とどう向き合うか。 距離の縮め方、引...

ここから始まるの!?——日立で踏み出した“最初の現場”

新人研修の先にあった、金融×大規模システムという世界 うわっ、社会人っていきなり本番なのか!? そんな感覚を抱えながら、私は日立での社会人生活をスタートさせた。もともと学生時代からプログラムを書いていたこともあり、新人の中では「システムは分かる方」に入れてもらえていたと思う。正直、システム研修は楽しかった。理屈が分かる、手を動かすと結果が返ってくる。その感覚は、すでに自分の中に馴染んでいた。     ■ 夏、配属説明という“最初の分かれ道” 夏になり、配属の説明が行われた。 金融、公共、産業……並ぶ事業部の名前を聞いても、正直ピンとこなかった。配属面談では「どんなことをやりたいか」と聞かれたが、各事業部が何をしているのか、実感として分かっていなかったのだ。 先輩の話を聞いても、いまひとつ腑に落ちない。 今思えば、理由はシンプルだ。周りはみんなシステム系。違いがクリアに見えなかったのだろう。 「事業部ごとにシステムは全然違うよ」 そう言われていたし、確かに特色はある。でも、今ならはっきり言える。 全部、一緒だよ。 ■ 「モノづくり」がしたかった新人の本音 当時、私が強く思っていたのは「モノづくりがしたい」ということだった。 リアルな現場で、実際に動くものを作りたい。画面の向こうに、確かに使う人がいる世界。その思いを抱えたまま、私は金融系システムへの配属を告げられた。 しかも、大規模システムを構築する部隊。 社内では「ザ・ブラック部署」と囁かれ、少し敬遠されていた場所でもあった。 ■ 嫌煙される部署、でも誇らしかった理由 正直、周囲の反応は微妙だった。 「大変だよ」「きついらしいよ」 そんな声も聞こえてきた。でも、不思議と私は誇らしかった。選んでもらえた、という感覚があったからだ。 大規模システムを構築する。 簡単じゃない。だからこそ、やりがいがある。 そうして、私の最初のプロジェクトが始まった。 ■ 金融という世界に足を踏み入れた瞬間 銀行のシステム。 外国の銀行と接続し、Web画面を作り、データをつなぐ。 一行のコードが、世界のどこかの取引につながっている。そのスケールに、静かに震えた。 この瞬間、私は金融という世界に足を踏み入れたのだ。 ■ そして今、言えること 振り返れば、不...

名前が削られていく!?——日立が世界を席巻した“効率化の正体”

呼び方ひとつに、巨大企業の知恵が詰まっていた うわっ、名前が短くなっていく会社があるなんて!? 初めて日立製作所の文化に触れたとき、正直そう思いました。 ■ 古い会社には、必ず「文化」がある どんなに古い会社でも、いや、 古い会社だからこそ 、必ず独自の文化があります。 日立は100年以上の歴史を持つ企業です。当然、数えきれないほどの文化が積み重なってきました。 その中の一つが、社内で有名な 「日立用語」 です。 ■ 拝承、~したく。そして“呼称”という文化 「拝承しました」「〜したく存じます」 こうした言葉遣いは、日立らしさの象徴として知られています。 でも、もっと面白いのは 人の呼び方 です。 日立では「山口さん」とは呼びません。 基本は、 (山口) 。 ■ 役職が上がると、名前が削られていく さらに不思議なのはここからです。 課長になると → (山口)k 部長になると → (山口)B さらに上に行くと → (ヤマグ) もっと上だと → (ヤマ) 最後は… → (ヤ) 「え、なんで名前が減っていくの?」 誰もが一度はそう思います。 ■ 実はこれ、工場発の“改革”だった この不思議な文化、実は 工場の業務改革 から生まれました。 日立では長らく、紙の 稟議書 で意思決定をしていました。 稟議書には〇が並び、その中に「名前」「役職」を手書きで書いて、上へ上へと回していきます。 当然、 上の人ほど名前を書く回数が多い 。 ■ 漢字を書く時間は、会社全体のムダだった もし役員に画数の多い漢字の人がいたらどうなるか。 その名前を書くたびに、社員全員の時間が削られていきます。 書き間違えれば、差し戻し。 漢字を間違えれば、また書き直し。 そこで考えられたのが、 名前はカタカナで短く 役職はアルファベットで一目で分かる という仕組みでした。 ■ 書く時間を減らし、役職検索も不要に カタカナで短い名前=偉い人。 アルファベット=役職。 これだけで、 「誰の承認か」「どのレベルか」を 考えずに分かる 。 つまりこれは、 文字の形そのものを使った業務効率化 だったのです。 ■ 手書き文化だからこそ生まれた知恵 これは、手書きの稟議書が前提だった...

これが社会の入口!?——500人が一斉に立ち上がった日立の入社式

テレビの中の光景は、現実だった。大企業に「入る」という一日 うわぁ……本当にこんな世界があるんだ。 それが、日立製作所の入社式に足を踏み入れた瞬間、最初に浮かんだ正直な感想だった。     ■ 全社一斉。想像を超えたスケール感 日立製作所の入社式は、事業部ごとではない。 全体で一斉に行われる。 前日、新宿のホテルに前泊し、翌日は朝から夜まで一日がかりのイベント。 会場に集まった人数は、 500人超 。 大学の卒業式と同じ、いやそれ以上の規模だった。 テレビのニュースで何度も見てきた、あの「ずらりと並ぶ新入社員」。 「ああいうの、演出でしょ」と思っていた自分が恥ずかしくなる。 本当に、あるんだな。 ■ 「大企業に入る」という実感が、じわじわ来る スーツ姿で整列する500人以上。 一人ひとりは小さくても、集まると圧倒的な塊になる。 この瞬間、ようやく実感した。 ああ、自分は“大企業”に入ったんだ、と。 式が終わると、今度はそれぞれの事業部へ割り当てられていく。 私が配属されたのは、 システム部隊 。 そこでも、ざっと 200人規模 。 「多いな……」と思いつつ、ここからが本番だった。 ■ 3カ月間の研修という“社会人リセット期間” 配属後は、約3カ月にわたる研修。 社会人としての基礎、ビジネスマナー、そしてシステム開発の考え方。 プログラムの書き方だけでなく、 考え方・進め方・チームの作り方 まで叩き込まれる。 役員クラス、部長クラスの話を直接聞く機会も多い。 学生時代とは、空気がまるで違う。 スーツを着て、真剣な議論を交わす日々。 「社会人になった」という感覚が、一つひとつ積み上がっていった。 ■ 仲間であり、ライバルである存在 同期は、仲間であり、同時にライバル。 議論すれば負けたくない。 成果を出せば刺激になる。 それでも、夜には情報交換し、助け合う。 このとき、心から思った。 基本情報処理技術者試験、合格しておいて本当に良かった。 基礎があるだけで、理解のスピードも、議論の深さも違う。 ■ すべてが「社会人スイッチ」を押していく 500人の入社式。 200人のシステム部隊。 3カ月の濃密な研修。 仲間との切磋琢磨。 そのすべてが、少しずつ、確実に、 ...

これが入口!?——「システム屋」への登竜門は、試験会場にあった

2004年、シスアド全盛期。国家資格とともに始まった社会人の一歩 うわっ、もう“試されてる”の!? 2004年。私の社会人1年目は、そんな焦りから始まった。内定をもらって安心する間もなく、「入社までにこれを取ってください」と告げられたのが、 基本情報処理技術者試験 。 ――え、入社前から国家試験? 空いた時間でお小遣いを貯めよう!「アイリサーチ」       ■ シスアドという“流行語”があった時代 当時は「シスアド」という言葉がやたらと聞こえていた。 正式名称は システムアドミニストレーター 。IPAの試験として、それまで基本情報処理技術者しかなかった区分に、新しくできた資格だ。 位置づけは明確だった。 文系の人はシスアド 理系の人は基本情報処理技術者 これが“普通”だった。 シスアドは、ユーザー側のシステム理解を問う試験で、当時は「一番簡単な国家試験」と言われていた。一方で、理系の私は迷う余地もなく基本情報技術者。 それが、 入社条件の一つ のように扱われていたのだから、正直かなり焦った。 ■ 大学で学んだことと、驚くほど似ていた 試験勉強を始めて、ふと思った。 「あれ?これ、大学のシステムの授業と似てないか?」 アルゴリズム、基礎的な情報理論、システム構成。 内容そのものは新しいというより、“整理されている”印象だった。 極端な話、 大学の試験もIPAにしてしまえばいいのでは? そう思ったほどだ。 とはいえ、国家試験という響きは重い。 落ちたらどうなる? 本当に入社できるのか? そんな不安を抱えながら、試験当日を迎えた。 ■ 合格通知と「国家資格保持者」という違和感 結果は――なんとか合格。 封筒を開けた瞬間、安堵と同時に湧いてきたのは、少しの違和感だった。 「国家資格保持者」。 なんだか、こそばゆい。 でも同時に思った。 ああ、これが“企業で働く”という世界への入り口なんだな と。 ■ レールに乗らなければ、振り落とされる? 大企業・日立で働くということ。 そこには、明確なレールがあった。 試験、資格、評価、昇進。 一つでも外したら、すぐに振り落とされるのではないか。 そんな不安が、常に背中を押してきた。 それでも―― 期待と不安が...

ここが入口だったの!?——気づけば“システム屋”になっていた僕の原点

黒い画面とテレビの誘惑、そして組織開発へ。遠回りに見えて一直線だった話 うわっ、人生の分岐点って、こんなに静かに始まるのか! 今では自信をもって「システム屋です」と言える。でも、最初からそう名乗る覚悟があったわけじゃない。振り返ると、その入口はずっと昔、リビングの片隅にあった。 空いた時間でお小遣いを貯めよう!「アイリサーチ」       ■ 小学生、最先端のおもちゃと出会う プログラムを最初に組んだのは、小学生の頃だ。 父が当時としては最先端だったPC-9801Fを買ってきて、リビングに置いてくれた。今思えば、あれは英才教育でも何でもなく、ただの「未来の塊」だった。 テレビに背を向けて机に向かう配置。 テレビっ子だった僕は、すぐに画面の誘惑に負けて振り返ってしまう。でも、黒い画面に文字を打ち込むあの機械は、抗えない魅力を持っていた。最先端のおもちゃ、まさにそれだった。 ■ 黒い画面に打ち込む、意味の分からない文字 そこで初めて、黒い画面にプログラムを打ち込んだ。 言語は何だったのか?正直、覚えていない。たぶんアセンブリだったと思う。英語もまだ勉強していない。アルファベットを「意味」ではなく、「形」として追いかけるだけの作業。 それでも、動いた。 画面が変わった瞬間、地味だけど、確かな嬉しさがあった。「自分が何かを動かした」という感覚。それは、今も変わらずシステム屋の原動力になっている。 ■ 次に本気で向き合ったのは、大学研究室 次にプログラムと本気で向き合ったのは、大学の研究室だった。 C、C++で統計解析のプログラムを書く日々。徹夜しても原因が分からないバグ。今よりずっと非力なコンピューターで、シミュレーションに何日もかかる。 効率も洗練もされていない。 あくまで「自分でプログラムを組んでいる」レベル。それでも、問題と向き合い、試行錯誤を繰り返す時間は、確実に自分を鍛えていた。 ■ 本当に足を踏み入れた瞬間 やっぱり「システム屋に足を踏み入れた」とはっきり思うのは、日立に就職が決まった時だ。 Javaを勉強し、個人ではなく「組織で作るプログラム」の世界に入っていく。そのための試験勉強をしているとき、ふと、こう思った。 ——ああ、これが自分の生きる世界なんだ。 はっきりした確信じゃな...

フランス留学で勝ったつもりが、就活で置き去り?——僕が“時間軸の罠”にハマった日

うわ、RPGのラスボスを倒したと思ったら、別の世界線で就活が終わっていた! ■国費留学のはずが、帰国後に待っていた現実 フランスで1年間。しかも国費だ。他の留学とは違う、特別な経験になるはずだった。 語学学校のあと、いきなり企業研修。それも Renaultで8カ月 。 「十分なネタがある」「働くハードルも下がった」「これは武器になる」——自信があった。 僕が選んだのは、 ブルカヌスプログラム 。 日本の学業スケジュールに合わせられていて、 4月に渡仏し、翌年3月に帰国する設計だ。 つまり、帰国した瞬間に就職活動へ突入できる。完璧な流れ——そう信じていた。     ■しかし帰国したら“就活は終盤”だった 3月末に帰国。 「さぁ、就活だ!」と思った瞬間、驚いた。 すでに多くの学生が内定を獲得していた。 4月解禁?建前らしい。 内々定なのか何なのか分からないが、とにかくみんな先を走っていた。 でも焦らなかった。 なぜなら、 Renaultを経験した僕なら、日産に行けるはずだと思っていたから。 ■面接で“企業研修の成果”を語れなかった 履歴書を書き、フェアに参加し、企業説明会にも積極的に顔を出した。 しかし、 情報の差は埋まらない。 そして日産の面接。 話せることは山ほどあった。 語学学校からいきなり実務になった驚き、文化の違い、Renaultで任せられた仕事。 でも結果は 落ちた。 理由はシンプルだ。 Renaultの経験を「成果」として表現できなかった。 自己理解が浅く、仕事の文脈に翻訳できなかった。 そこから自動車メーカーをいくつか受けたが、落ち続けた。 ■焦っても、結局“面接の感覚”がなかった 留学中、僕は周囲の動きを知らず、フランスで淡々と経験を積んだ。 だがその裏側で、日本では就活の戦略・準備・面接練習が進んでいた。 僕には、 「就職面接とは何か?」という空気がなかった。 経験をどう「強み」に変えるか、理解できていなかった。 そして、ただ落ちていく。 ■最後は偶然が“拾ってくれた” それでも僕には救いがあった。 教授の紹介で 日立 に入れた。 結果論だが、 捨てる神あれば拾う神あり。 フランスで“成長したつもり”でも、帰国後の競争軸には別のルールがある。 経験だけでは勝てない。 翻訳し、戦略に変...

合格か不合格か。それでも歩く——始動プロジェクトで学んだ“運と前進”

うわ、こんなに世界って“線引き”されていたっけ? ■最初にぶつかった壁 「山口さんって運がいいですか?」と聞かれると、いつも私は 「そこそこです」 と答えてきた。 運がいい瞬間もあれば、運が悪い瞬間もある。最後の“何人か”に選ばれる確率は低いかもしれない。でも、何回かトライしていると、きちんと合格してきた経験もあった。だから、全く運が悪いわけでもない。 私は昔から 派手には行かないタイプ だ。焦らず、ゆっくり、できることを積み上げる。 100点なんて、いきなり取れない。取れなくてもいい。悔しいことはあっても、それも含めて自分だと思っている。 空いた時間でお小遣いを貯めよう!「アイリサーチ」       ■でも、始動はちょっと違った そんな私のスタイルが、始動プロジェクトでは揺れた。 2回目の挑戦で100人に残った。中間審査でも50人に残れた。 でも、 最後のシリコンバレーには残らなかった。 その過程には、圧倒的な伴走があった。メンターの方が、文字通り私を“始動”させてくれた。 何度も壁打ちし、何度も指摘をもらい、私の弱点を一緒に棚卸してくれた。 最後の最後の時間まで支えてくれたのに、私は選ばれなかった。 申し訳ない気持ちすら湧いた。 悔しかった。 ■冷静と葛藤の間 けれど、同時に どこか冷めた自分がいた。 そもそも、事業に“良し悪し”なんてあるのだろうか? それを順位で決める世界に、心のどこかで「?」がついた。 その違和感は、確かに私の表情や言葉ににじみ出てしまったのかもしれない。 私はまだ、自分が臨む 勝負のルールを理解しきれていなかった のだ。 ここで初めて気づく。 ルールの理解なくして、戦いは成立しない。 相手のゲームに挑むなら、そのゲームをもっともっと理解しなければならない。 ■積み上げるしかない 私は、奇跡のスプリントで勝ちたいタイプではない。 一つずつ勉強し、一つずつ挑戦し、前進を止めない。 それが唯一、私ができることだ。 最後に残れなかった事実は変わらない。 でも、残らなかったことで 「私の方法は、まだ足りない」と知れた。 それは、悪いニュースではない。進むための材料だ。 私は今日も、できることから積み上げる。 運が良くても悪くても、それでも踏み出す。 私...

成功者って“氷山の上だけ”!? ——アクセラの裏で消えた無数のストーリー

成功者の言語化が学びになる。でも、同じ数だけ“見えない失敗”がある。 ■ うわっ、なんて眩しい世界なんだ! アクセラに参加すると、まず驚くのが“講師陣の存在感”だ。始動プロジェクトのようなアクセラに期待するものの一つは、間違いなく講師だろう。有名かどうかなんて関係ない。**「成功してきた人間の経験が、言葉として聞ける」**これが価値だ。 メンターも同じだ。 賞を取ってきた人、ビジネスで市場を突破した人、名前が売れている人—— 成功してきたストーリーを惜しみなく共有してくれる。 こちらにとっては、それだけで十分刺激になる。 しかし、気を付けたい視点がある。 それは、 「成功ストーリーしか出てこない」という事実だ。     ■「成功者しか登壇できない場」がつくる錯覚 講師やメンターに“失敗し続けた人”は登場しない。 途中で諦めた人、何かが足りなかった人、不運だった人——その姿は表に出ない。 結果、こんな錯覚が生まれる。 成功が正しい 失敗はダメ 「みんなできるなら、自分もできるはず」 だが、それは表層でしかない。 ■成功の裏に、必ず存在する「失敗の断層」 講師たちが成功した背景には、彼ら自身の努力がある。 しかし同時に、 「同じ事業を同じタイミングで始めた誰かが消えていった」現実もある。 彼らは見たはずだ。大量の失敗例を。 アクセラで聞くべきは、こうだ。 なぜその人は生き残ったのか?なぜ“成功者”と呼ばれたのか? その答えには、運も、偶然も、踏ん張りも、決断もある。 そして、 想像すべきは“失敗のストーリー”の方だ。 ■見えない失敗を想像しながら、言語化を浴びる 成功者の発言に触れるとき、私は必ず“もう一つの前提”を重ねるようにしている。 ここに立てなかった人の数 途中で折れた人の葛藤 運に左右された瞬間 それらを想像したとき、言葉の価値は二倍になる。 そして、自分に問いが返ってくる。 「自分は失敗するかもしれない。それでも戻れる道を描けるか?」 ■明日は失敗するかもしれない。でも—— 失敗し続けた人は舞台に出てこない。 でも、“失敗から戻ってきた人”はいる。 その姿がある限り、リカバリーは可能だ。 すべてが成功するとは限らない。 それで...